1.何のために叱るのか
何のために叱るのか。
日本語としての定義的な意味はさておき、
「相手の行動や考えの変容を目的とする行為」
だと私は思っています。
叱るというのは、相手があって初めて成立する行為です。
一人では叱れません。
比較対象として、「怒る」という言葉が引き合いに出されます。
怒るというのは、個人的な感情の表れです。
だから、一人でも怒るとことはできます。
たまたまその感情を表現されている相手はたまったものではありません。
2.変容の方向を考える
話をもとに戻します。
では、どのような方向への「相手の行動や考えの変容」を求めるのでしょうか。
叱る相手の成長
私はこの1点です。
相手の成長を願う気持ちに裏打ちされてなければいけません。
(1)生徒の成長と教師の都合
これを意識できていれば、叱るときの声のかけ方が変わってきます。
例えば、授業中騒がしい生徒への指導場面で、
相手の成長を考えた
「この部分、しっかり聞いたら、絶対、⚪︎⚪︎さんの役に立つよ」
(授業の創意工夫についてはここでふれないでおきます)
という声かけと、
教師の都合を考えた
「みんなの迷惑になるから、静かにしなさい」
(迷惑になるからという言葉を使ったらいけないということではありません。)
という声かけでは、生徒の受け止め方が全く異なります。
(2)教師同士の指導場面
教師同士の指導場面でも同じことが言えるでしょう。
A先生がB先生によくなかった行動を指導する場面でも、
相手の成長を考えた
「どういう理由で、それをしようと思ったのですか」と
自分の都合を考えた
「そんなことするなんて、ありえないですよね。どういうつもりなのですか。」
では、まったく相手の成長度合い、行動や考えの変容度合いが変わっていきます。
後者の場合では、相手をただ単に責めている、とがめているとしか言いようがありません。
これは、叱っているのではなく、怒っているのです。
他には、
「それやって、何の意味があるの?」
「お前がそんなことやるなんて、10年早い」
では、単に相手を責めている、とがめている言葉と言えるでしょう。
「それをやったのには、大事な意味があったのですね」
「ナイスチャレンジ!」
のような言葉に直すとよいでしょう。
相手の行動や考えの変容につながらない後者の言葉、相手の自尊心を傷つける言葉、相手のミスを責める言葉を使ってはいけないのです。
3.厳しい指導をする場合
こういうと、厳しい指導をしないのか、ということになります。
そんなことは決してありません。
相手の成長を心から願い、真剣に祈って考えて出す言葉ですから、時には、厳しい口調になります。
例えば、自分がミスをしたのに、ミスをしたと気づいていない、自覚していない、少し気を緩めてしまってミスにつながったことなのに、それを隠そうとする、そんな時は、大声で(ただし場所と時間は選んで)叱ればいいのです。
さて、叱る目的は、自尊心を傷つける、相手のミスを責める、それが目的ではないはずです。
もし、後者の言葉を使って相手の行動や考えの変容を求めるようであれば、それは、教育とは呼べません。
相手の成長を心から願い、そこから生まれる叱る言葉を発していくのです。